001
ある日の午後、カフェでノートを開いていた。 ふと気づくと、ペンが止まり、テーブルの|端《はし》で半分ほど残ったカフェ・オレが冷めきっている。 どれくらい、ぼうっとしていたのだろうか。意識がぼんやりとして、まるで寝坊した朝のような|気怠《けだる》さが頭全体を包んでいた。 静かに、大きくため息をつき、|目頭《めがしら》を|揉《も》んで、私は気づいた。 自分が何も憶えていないということを。
カチカチ、ボーンボーンと、カフェの大きな柱時計が鳴り始めた。 三時。 午後三時だろう。 窓から見える|戸外《こがい》はまだ明るく、いい天気だ。 もう一度、大きく息をついてから、私は再び自分の頭の中を探ってみた。 しかしそこは空洞だった。自分の名も、なぜここにいるのかも、どこの誰であり何をするのかも、分からない。 ただ、目の前に、一冊のノートがあった。開いたページには、こう書かれていた。 やあ、おはよう、と。
002
君はきっと何も憶えていないだろう。と、ノートの文字は親しげに語りかける友人のように|綴《つづ》られていた。筆跡にも見覚えはない。 それを読むしかない私は、ただ読み進めた。 そこには、このようなストーリーが記されていた。
君、つまり私だろうか。君は、とある製薬会社の新薬の臨床実験に応募した被験者だった。その薬によって、君の持病は治ったのだが、一ヶ月ほどして、驚くべき副作用が現れた。
毎日、三時頃になると、一切の記憶を失ってしまうのだ。自分の名や|素性《すじょう》、ほんの一時間前まで、どこでどうして過ごしてきたのか、全て忘れてしまう。 手元に残るのは一冊のノートと手荷物だけ。ノートに|記《しる》された文字が、自分は何者で、これからどうすればよいのかを教えてくれる。 生活費のことは心配しなくていいよと、ノートは語っていた。製薬会社からの|示談金《じだんきん》で、君は一生食うに困らない程度の金を持っている。 通帳やキャッシュカードは手元のカバンに入ってるよ。 行って確かめてごらん。
003
そんな|都合《つごう》のよいことが、この世にあるだろうか? 私は自分自身の|一切《いっさい》を忘れていたが、この世の厳しさは憶えているらしかった。 気を落ち着かせるため、冷え切ったカフェ・オレを飲み干して、私は手帳に書かれた銀行口座の暗証番号を見つめた。 0000。 ふざけた数字だ。もちろんその番号にも憶えは無かった。 私はノートをカバンにしまい、中にあった財布から店の会計を済ませて、外に出た。 ビルが立ち並び車の行き交う、そこそこの規模の街だった。通帳に書かれた店名の銀行の支店も、すぐに見つけることができた。 私はそこでATMに通帳とカードを入れ、先程の番号で現金を引き出してみた。 当たり前のように|紙幣《しへい》が一枚吐き出されてきて、確かに一生食うに困らないだろう金額の残高が、口座に残されていた。 私は喜ぶべきなのだろうか。 口座からは、私が過去に現金を引き出し使ったとおぼしき履歴が、|淡々《たんたん》と印字されている。 時には大金を引き出してみたり、ごく少額しか使われていない時期もあった。 その頃の自分のことは全く思い出せない。
004
私は一体、これから何処へ行って、何をすればいいのだろうか。 ノートに記されていたのは、この銀行にある金の話のほかは、私が家族のいない身であり、こうなる前は闘病に明け暮れるばかりで、友人らしい友人もいないこと。職にも就いていないこと。帰るべき家もないこと。 今夜はどこかに適当な宿をとって、休むようにという当座のアドバイスだけで、締めくくられていた。 そして、この私の記憶と意識も、明日の午後三時ごろには消え去る予定だ。 それはあと一日の余命と、大して変わらないのではないか? 銀行のATMコーナーの隅に立ち尽くしたまま、私は呆然としていた。その姿があまりにも異様だったのだろう。紺色の制服を来た警備のスタッフが、厳しい目をチラリとこちらに向けてきた。 このままここに突っ立っている訳にもいかない。 私は追い立てられるように、また街へと流れ出ていった。 時計を見ると、カフェで気がついたときから一時間ほど経っていた。 たったの二十四時間しかない一生がもう、一時間も過ぎてしまったのだ。 私はじわりとした焦りを覚えた。