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ある日の午後、カフェでノートを開いていた。  ふと気づくと、ペンが止まり、テーブルの|端《はし》で半分ほど残ったカフェ・オレが冷めきっている。  どれくらい、ぼうっとしていたのだろうか。意識がぼんやりとして、まるで寝坊した朝のような|気怠《けだる》さが頭全体を包んでいた。  静かに、大きくため息をつき、|目頭《めがしら》を|揉《も》んで、私は気づいた。  自分が何も憶えていないということを。

カチカチ、ボーンボーンと、カフェの大きな柱時計が鳴り始めた。  三時。  午後三時だろう。  窓から見える|戸外《こがい》はまだ明るく、いい天気だ。  もう一度、大きく息をついてから、私は再び自分の頭の中を探ってみた。  しかしそこは空洞だった。自分の名も、なぜここにいるのかも、どこの誰であり何をするのかも、分からない。  ただ、目の前に、一冊のノートがあった。開いたページには、こう書かれていた。  やあ、おはよう、と。

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君はきっと何も憶えていないだろう。と、ノートの文字は親しげに語りかける友人のように|綴《つづ》られていた。筆跡にも見覚えはない。  それを読むしかない私は、ただ読み進めた。  そこには、このようなストーリーが記されていた。

君、つまり私だろうか。君は、とある製薬会社の新薬の臨床実験に応募した被験者だった。その薬によって、君の持病は治ったのだが、一ヶ月ほどして、驚くべき副作用が現れた。

毎日、三時頃になると、一切の記憶を失ってしまうのだ。自分の名や|素性《すじょう》、ほんの一時間前まで、どこでどうして過ごしてきたのか、全て忘れてしまう。  手元に残るのは一冊のノートと手荷物だけ。ノートに|記《しる》された文字が、自分は何者で、これからどうすればよいのかを教えてくれる。  生活費のことは心配しなくていいよと、ノートは語っていた。製薬会社からの|示談金《じだんきん》で、君は一生食うに困らない程度の金を持っている。  通帳やキャッシュカードは手元のカバンに入ってるよ。  行って確かめてごらん。

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そんな|都合《つごう》のよいことが、この世にあるだろうか?  私は自分自身の|一切《いっさい》を忘れていたが、この世の厳しさは憶えているらしかった。  気を落ち着かせるため、冷え切ったカフェ・オレを飲み干して、私は手帳に書かれた銀行口座の暗証番号を見つめた。  0000。  ふざけた数字だ。もちろんその番号にも憶えは無かった。  私はノートをカバンにしまい、中にあった財布から店の会計を済ませて、外に出た。  ビルが立ち並び車の行き交う、そこそこの規模の街だった。通帳に書かれた店名の銀行の支店も、すぐに見つけることができた。  私はそこでATMに通帳とカードを入れ、先程の番号で現金を引き出してみた。  当たり前のように|紙幣《しへい》が一枚吐き出されてきて、確かに一生食うに困らないだろう金額の残高が、口座に残されていた。  私は喜ぶべきなのだろうか。  口座からは、私が過去に現金を引き出し使ったとおぼしき履歴が、|淡々《たんたん》と印字されている。  時には大金を引き出してみたり、ごく少額しか使われていない時期もあった。  その頃の自分のことは全く思い出せない。

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私は一体、これから何処へ行って、何をすればいいのだろうか。  ノートに記されていたのは、この銀行にある金の話のほかは、私が家族のいない身であり、こうなる前は闘病に明け暮れるばかりで、友人らしい友人もいないこと。職にも就いていないこと。帰るべき家もないこと。  今夜はどこかに適当な宿をとって、休むようにという当座のアドバイスだけで、締めくくられていた。  そして、この私の記憶と意識も、明日の午後三時ごろには消え去る予定だ。  それはあと一日の余命と、大して変わらないのではないか?  銀行のATMコーナーの隅に立ち尽くしたまま、私は呆然としていた。その姿があまりにも異様だったのだろう。紺色の制服を来た警備のスタッフが、厳しい目をチラリとこちらに向けてきた。  このままここに突っ立っている訳にもいかない。  私は追い立てられるように、また街へと流れ出ていった。  時計を見ると、カフェで気がついたときから一時間ほど経っていた。  たったの二十四時間しかない一生がもう、一時間も過ぎてしまったのだ。  私はじわりとした焦りを覚えた。